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3.11大震災・津波を経験して

―日本郵便気仙沼支店郵便労働者からの報告―

5.17国会前集会 左が遠藤壽雄さん
  郵産労東北地本副委員長の遠藤壽雄と申します。
  私は、東日本大震災で大きな災害を受けた気仙沼市で、郵便事業株式会社気仙沼支店郵便課で働いています。
  はじめに、全国の郵政の社員・郵産労の皆さんから貴重な支援物資を送っていただき、気仙沼支店社員や新仙台支店の組合員に代わり感謝申し上げます。誠に有難う御座いました。

  大震災での郵政事業のライフラインの重要性についての報告をということですが、1000年に1度という歴史的な被災経験をとおして震災後の郵便事業会社気仙沼支店の事業の再開への取り組みを報告し、今後もおこるかもしれない大災害時の対応の参考にしていただければと思います。
  ただし、自分で確認したこともありますが、社員からの聞き取り調査ですので正確とはいえない部分もあることを承知願います。

震災直後の気仙沼市  宮城沖地震は数年のうちに必ず到来すると言われていましたが、これほど想像を絶する巨大地震と巨大津波がくると誰が予想したでしょうか。私の3月11日の勤務は、週休でした。お酒を購入するため高台の大型店に入店した所で地震に遭遇しました。
  急いで自宅に戻ろうとしたのですが、橋の手前で渋滞に巻き込まれました。何とか津波の前に渋滞から抜け出せ自宅に戻ることができました。今でも、その川には何十台もの車がそのまま残っています。車で避難しようとして渋滞に遭い命を落とした方も多数いました。
気仙沼の被害写真  自宅に戻ってもひっきりなしに強い余震が起こり家屋には入れない状況で1時間は外で様子をみていました。その後、内湾では火災が発生し、海岸の高い建物に非難した人達には地震・津波のあとに今度は火災と相次いで災難が押し寄せました。その夜私は、職場や同僚に連絡が取れないまま、ろうそくと懐中電灯で余震に怯えながら茶の間で夜を明かしました。
  後で様々な生きるための奮闘の様子を聞くたびに、被災者と比べたら私は、なんでもない状況でした。
気仙沼港付近  我が家は、幸いに水とガスは止まることなく、電気と電話の通じない生活が9日続きました。テレビは市内の5割の世帯が加入している地元のケーブルネットに加入していましたが、そのテレビ局も津波で流されたため見ることが出来ませんでした。インターネットもだめ、新聞も3月中は配達されない、情報源はラジオだけでした。
  テレビが見られるようになってあらためて津波被害の大きさに驚かされました。情報が得られないことがいかに不安を増加させるか本当に思い知らされました。

  次に日本大震災による気仙沼支店の被災の状況について報告します。
  気仙沼支店の状況は、地震直後、支店内にいた多くの社員は、駐車場に集まったそうですが、高い津波が来るというので近くの高台にある避難指定場所である気仙沼中学校に避難し、管理者は3・4階に避難したそうです。
  配達している社員は、個々の判断に任せ非難するようにしているそうです。ある社員は、津波が最後に押し寄せる地域の配達をしており、津波が遠くに見えたので急いで高台に非難したそうです。しかし、配達地域の避難場所の認識は無かったようです。
  気仙沼支店内にも民営化前には壁に掲示されていた避難場所についても、JPSの都合か現在はすべて撤去され何も掲示されていません。

気仙沼中学校  気仙沼中学校に避難した社員は、5時ごろ支店に戻ると津波の被害の惨状に驚いたそうです。郵便局の駐車場と前の道路は流されてきた瓦礫や何十台もの車とヘドロだらけという状況だったそうです。津波の影響がない社員は帰宅し、被災が予想される社員は支店で一夜を過ごしたようです。
  残念ながら配達中の気仙沼支店、正社員1名、大谷センターの期間雇用社員1名、当日週休で昨年12月正社員に登用された郵便課社員の1名、計3名が犠牲となりました。

  局舎の状況は、気仙沼支店は床上浸水10センチ、大谷集配センターは津波で建物は残ったものの使用不能、郵便局は5局、簡易局1局が壊滅しました。
  郵便局で非難生活を送っているのは事業会社社員13名、局会社社員3名いましたが5月の連休中に支店内から全員退去し避難所に移りました。
  残った車両は、軽自動車23台中4台、バイク43台中15台と被害は甚大でした。

  翌日は職場の状況が判らないため、朝8時半ごろ職場に行くとすでに多くの社員が来ていました。
  気仙沼支店は道路からは1mは高くなっているのですが10cmの床上浸水でした。当然停電、リフトもエレベータも使えず、帰宅できない社員と出勤した社員で前日新仙台支店から到着しそのままになっていた運送便から手渡しで郵便や荷物を降ろし、前日の取り集めた郵便物を載せて10時ごろ出発させ、その後浸水した海水の除去とお客様駐車場に流れついた瓦礫の整理と汚泥の除去作業をしました。
被災写真  そんな中、前日唐桑地域を配達していた5名が15キロを歩いて無事に戻ってきた時には、大きな歓声と拍手がおこりました。
  また、火事で動けず避難所で2泊して支店に戻ってきた社員が1名いました。避難所に2泊したそうです。避難所という理解は無かったもののその地域で一番高い場所ということで避難したそうです。
  家族が行方不明になっている社員、家屋が流失した社員、ガソリンが不足して出勤できない社員など被害が様々な形で表れました。

  13日は、私の親類の安否確認に回りました、海岸に近い親戚の行方を聞きに行った別の親類で犠牲が出ていました。いまだに行方不明です。
  午後からは、長引くかもしれない被災生活に備え、岩手県の隣町で食料品や電池などを調達してきました。
気仙沼大谷郵便局  14日は、8時半出勤。駐車場に流れてきた多くの太い柱の整理。10人でも動かない。ある社員がチェンソウを持ってきて運びやすく切断し、瓦礫とともに隅に寄せ、汚泥をかき出し地下駐車場からバイクを上げ使用可能か点検しました。
  郵便局社員も様子を見に局に来るが、駐車場の片付け掃除・地下駐車場のヘドロの掃きだしには参加してもらえず、郵便局会社が借用している場所だけの掃除でした。ここにも民営化の影を映し出しています。

  15日は郵便局が貯金の非常払いを開始しました。事業会社とは違い早い再開でした。
  窓口ロビーは使用できないため職員通用口から事務室に入って取り扱いをおこなうため多くの人が局内に順番待ちで並びました。
  郵便局が開始しているということで郵便を出したいという人も現れました。特に、電話が通じないので葉書で消息を伝えたいという人や受験の手続きをしたいという方、津波で家が流され転居したので郵便を転送してほしいという人もいましたが、動き出す目途もたってないことを伝え、お引取り願いました。

被災写真  集配課長に、働くことが可能な社員だけでも集めて業務を再開しましょうと言っても「家族・親類の不明者の捜索などが優先だ」「みんな疲れイライラしていてそんな状況にはない」「ガソリンもないし無理」という返事。
  郵便課長にも内務だけでも仕事しませんかと言っても区分くらいなら出来るが、いつ配達なるか判らないのではやる意味がないと却下されてしまいました。支店長が震災日に出張でその後音信不通になっており、指揮を取る人がいない状況でした。

  午後に、auの移動アンテナが支店の近くに立てられ、女子社員から借りて本部(郵産労)の齋藤職員さんと連絡を取り4日目にようやく無事を報告できました。

  16日10時ごろ出勤すると、11日の夕方から音信普通だった支店長が戻ってきていました。新仙台支店の窓口課長と東北支社の社員とともに来ていました。
  被災状況の把握と今後の再開について協議し、17日から新仙台から運送便を1日1便で運行し郵便を動かしていくことを決定。新仙台支店に戻る際に震災後に集めた郵便や震災前に特定局で引き受けて送付できなかった書留、ゆうパックなど新仙台支店にようやく運んでもらうことができました。
  郵便課の要員については、16日支店にいたメンバーが8キロ歩いて通う期間社員、10キロをマウンテンバイクで通勤すると言った女子社員などで当面毎日業務にあたり、状況を見にでてきた社員と被災状況や通勤可能かどうかなどを相談しながら業務にあたる人を増やしていくことにしました。

被災写真  17日は、新仙台から書留と速達のみが1週間分到着、小包は地震翌日から当然到着無し、引き受けも停止。回収できるポストの把握と収集。特に現金書留・受験郵便、採用通知郵便を優先しカード類は余裕がある場合配達、不在通知はおかないと決めてとりくみました。
  津波浸水地域は道路もなくなっているため配達をとおして配達可能・不能地域の調査、80箇所の避難所住所の確認し21日までおこないました。
  集配労働者は被災後にようやく配達できたと思っても受取人が津波に流されていないと告げられたときには、返す言葉も無い辛い場面に遭遇したそうです。
  その後の取り組みについては、項目ごとに報告します。

  災害郵便と救助郵便

  災害郵便は、窓口を再開した日から受付をしました。
  被災状況を証明するものが必要ですが、震災後の混乱の中そんな書類があるわけも無く、口頭で「どちらの避難所にいますか」などと聞きながらの受付でした。
  救助郵便は、現金書留だけが対象となりました。荷物は対象外でした。気仙沼市は救助団体の申請が遅れたため4月25日からの認可団体となり、現金書留の救助郵便は、極々少数の到着でした。

  書留などの記録郵便

  震災後6日目から現金書留が大量に到着し配達可能な受取人に配達。進入できない場所や壊れて住んでいない家屋については、配達不能として二ヶ月保管という取り扱い規定による処理でしたが、4月12日以降は到着2週後に確認シートが提出されなければ変換処理することに変更されました。普通郵便も同じ扱いです。
被災写真  3月17日から停電のため集配は3時まで戻り、内務処理が6時で終えるようにしていましたが、市役所に電気を通すことが優先され隣にある気仙沼郵便局にもいち早く電気が通った19日からは、内務は10時帰りの夜勤に変更されました。
  22日から不在票を入れ配達希望受付は翌日以降とし、窓口交付も開始しました。
  二ヶ月たった現在も時間帯希望配達には応じきれていません。

  速達・普通郵便・大型郵便

  速達は、記録郵便と同様な取り扱いでした。
  普通・大型郵便は一ヶ月間地域区分局で道順組み立て処理し送ってもらいましたが、一ヵ月後は気仙沼支店において自前で処理することに変更しました。ただ、エレベーターが使用できないため、朝到着するものを午後に運送してもらい集配社員の協力をもらい2階へ運んでいます。そのため送達日数は1日遅れています。11月までエレベーターが修理できないそうで新たな対策が求められています。

  ゆうパック

  22日まではゆうパックが引き受け停止だったので、この間利用者は支援物資をレターパックで送付、レターパックがパレット毎何台も到着、さらに定形外の最大許容のおおきさで簡易書留として送付するなど様々工夫しており、被災者へ何とか支援物資を送りたいとする国民の気持ちがひしひしと伝わってきました。
  23日からゆうパックの引き受け開始は気仙沼支店止めと制限され始まりました。年末繁忙でも30パレットの到着ですが、毎日80から100パレットが到着するようになりました。
気仙沼線小金沢駅  到着したら電話連絡して取りに来てもらう方法で、要員は信越支社社員の応援隊7名のグループが1週間交代で対応し、発着口にゆうパック引取り所を設置し寒い中交付していただきました。
  新仙台支店では、被災地あてのゆうパックを積載したパレットが滞留し始め、気仙沼支店でもゆうパックのおき場所もない状況が発生したため、3月30日からは住所が記載されているものは配達することにし、また4月1日から新たな委託業者も入れ繁忙の2倍多いときは3倍の荷物をなんとか届けていきました。
  一ヵ月後は、信越支社社員応援部隊ではなくゆうパック対応社員として地元から青年3名雇用して取り組みました。現在は、発着要員として雇用しています。

  窓口引き受け

  3月22日から窓口端末が動かない状況で切手添付処理という方法で窓口を平常どおりの時間帯で再開させました。
  郵便局会社は、床上浸水10センチのため端末や電気の配電が全滅し、復旧するまで切手の販売だけでした。
  引き受け業務と転居確認シートの受け取り、書留交付・普通郵便の問い合わせなど全て、ゆうゆう窓口が2畳半ほどの狭い窓口で社員2名が対応し大変忙しい思いをさせられました。

  住所確認シート入力と避難所対策

  当初、東北支社の応援隊は80箇所の避難所をまわり、お客様住所確認シートの配布と郵便はがきの無償交付などを1週間実施しました。
  住所確認シートの入力は東北支社社員と集配課が行いました。避難所への郵便物の交付は、新仙台支店の応援隊5名が行いました。
  新仙台社員は陸前高田・大船渡支店の応援部隊とともに気仙沼から40キロ離れた一関市にアパートを借り集団で生活し毎日通って作業していました。

  震災後一ヵ月後は、時間制アルバイト6名を雇用して避難所への郵便物の交付・パソコンへのお客様の避難先住所の入力などをしています。
移動郵便局  当初900名程いた大規模避難所気仙沼市総合体育館では、移動郵便局が来るが郵便の配達がいつおこなわれるのかなどの問い合わせもあり、気仙沼支店は動き出した1週間後に避難所での交付実施を依頼し、避難所が転居確認シートを全員に配布し、回収箱を用意して回収することしました。
  シート回収後、この2ヶ月間、日曜以外18時から1時間郵便物の交付を実施しています。当日郵便が届いている人の名簿を作成しそれを体育館の入り口に貼り出し到着している人が交付所にきて受け取るという仕組みです。
  交付5分前には館内放送で「6時から郵便の交付が始まります」という放送が流れます。報告のために赴いた日も80人ほどが受け取っていました。
  また、郵便・貯金などいろいろ問い合わせもあり、社員も大変な様子でした。郵便局と一緒に実施すれば利用者へやさしいサービスになると痛感した思いです。

  その他の避難所は、日中に避難所で名前を呼び、返事をしたら交付する。また1日おきに夜間交付も実施しています。津波で証明がない人に、書留など交付する場合には受取人を保証する人がいる場合にのみ交付するという形態でした。

  労働条件

  勤務のシフトを作成する郵便課長代理も家屋が流され仕事どころでないため、総務主任が代行して翌日からの勤務指定を作成しました。翌日の勤務が判明するのが5時頃という状態が4月中旬まで続く中働いていました。
  被災して大変な状況が理解できるため意見もなかなか言えず我慢せざるを得ませんでした。

  男子休憩室も避難所と化しゆったりと休憩する場所もない状態が二ヶ月続きました。
  集配課では、再開初日はガソリンが手に入らないため自転車で配達しました。赤自転車はすごく重く被害のない地域は丘とか山間部なので寒い日でも汗をびっしょりかきながらの配達でした。
  翌日からは、残ったバイクと軽自動車を緊急車両に登録したことで優先的にガソリンを入れることができ自転車は、負担の少ない地域のみとしました。その後は、東京・東海地方から車両が被災した分補充されています。

  郵便局会社

  震災後は利用者を局の外に出て頂き、必要書類を安全な場所に保管し避難場所へ移動したそうです。
  震災後、電話不通のため、非常時にどのような業務が必要なのか不理解のため対応が遅くなったそうです。
  郵便事業会社との当日締め切り時間の変更などについて情報がないため利用者へご迷惑をかけてしまいました。
気仙沼郵便局  支店内の内線がつうじないため事業会社の被災している支店の引き受けについての情報も少なく機敏な対応が出来ませんでした。
  保険では、自動車保険では車両保険が使えない契約が多く役に立ちませんでした。
  通帳とカードの再発行の際に一緒に送付されないことへの不満が多く聞かれたそうです。
  当初転送不要郵便は還付とされるため、郵便局窓口交付という選択をしましたが、後で知りましたが、転居確認シートで転居した人には届けることにしたという情報は郵便局会社にはきませんでした。

  最後に

  毎日、瓦礫や川に流されている車を見るにつけ心が萎えてしまいます。限界を超えると涙は出ないらしいが、落ち着いてくると地元新聞で震災の様子や毎日多くの葬儀のお知らせを見るたび涙が自然と流れてきます。
  今日の開催のチラシにあるように、復興より復旧が優先だとの主張はまとを得た主張だと思います。
  市内はまだまだ瓦礫の山、仕事もなくなり、安心して住む家もない、道路もできていない、川には車の残骸が多い、避難所生活も長い、仮設住宅の建設も遅い、早く何とかしてというのが避難者の声です。

  被災者は支援金を受け取るために必要な書類を得るため郵便を利用しています。このような郵便を確実に届けていくことが被災者を安心させることにつながります。
  三事業一体だったときにはもっと利用者の不安を解消できたこともたくさんあっただろうとも思いました。

  今回の震災を経験し、局社の清掃、局内での避難者同士のストーブの確保争い、被災した地域への郵便の差出条件の情報など意思疎通の不足が表面化したことが利用者・被災者への不信を抱かせてしまいました。
  齋藤社長の記者会見でも認めています。

  いま、新仙台支店法人営業本部は気仙沼地域において支援物資で余っている水・マスクを再開した企業の訪問活動に利用した営業活動を展開しています。
  気仙沼ではメーデーはありませんので仙台のメーデーに郵産労仙台支部の一員として参加してきました。
被災写真  労働組合運動として復旧・復興のために社員の生活を守り・住民の要求実現のために奮闘していくことの大切さを知らされました。
  気仙沼市は原発の影響が少ないため遅いけれども少しずつ復旧ができていると思います。
  これからも、長い目で支援して下さることをお願いして報告とさせていただきます。

5月26日
郵産労東北地本副委員長
遠藤 壽雄


 
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